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​担当者:森田 秋子・菱川 法和

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CBA日記

 

 凄惨でむごたらしい事件が起きやりきれないが、何もできないので、せめて思っていることを書くことにする。

 相模原の重度身体障害者施設でおきた大量の殺人事件は、容疑者について不明な点が多く、その真相はもう少し捜査が進むのを待たなければならないが、容疑者が口にしたヒットラーの優性思想、障害者の生きている意味、という語に対して、さまざまな思いが胸をよぎるので、コメントすることにしたい。

 私は大学時代、「障害者問題研究会」というサークルに入っていて、「障害者に生きる権利があるかないか」という命題をよく考えた。平和で裕福な家庭にすくすくと育った優等生たちは、何の迷いもなく「すべての人間に生きる権利がある」と答えるだろう。私も、そんな大学生だった。しかし、そうは答えない人もいる。今回の事件のあとツイッターを見ると、「障害者に生きている意味はないという意見には賛成」などの書き込みが、すぐに見つかる。人格的にいびつな場合はさておくとして、景気が悪くなると、医療・福祉に使われるお金に疑問を持つ人が増えることは通常である。生活保護費、1人親支援費なども取りざたされる。当然、障害者にかかる費用に疑念の声が出る。

 社会が、自分で働けない人をどの程度養えるのかは、経済力によって決まる。その昔、口減らしのために、老人を山に捨てる、生まれた赤ん坊を殺す、ということは飢饉などが起これば当たり前に行われた。余裕がないために、生かせなかった命がたくさんあった。戦後の高度成長時代にはお金があまり、高齢者医療費が無料になるほど、余裕があった。しかしそれから数十年、低成長から無成長の時代に、高齢者の数が増え続け、医療・福祉の費用が捻出できない。予算を福祉に使うか経済施策に使うか、という議論が終わることはない。地域包括ケアは聞こえはいいが、要は最も効率よくお金をかけずに高齢者を救う方法がないか、という実験である。誰も裕福であれば、気の毒な人にも温情をかけられる、そうでなくなれば事情が変わる。それが人間という生物が生きてきた道だという事実から、私たちは抜け出すことはできない。

 もう1つ、深刻で深淵なテーマがある。「生きている価値」に、障害の重症度が関与するかどうか、だ。障害があっても働ける人がいる、話ができる人がいる、笑顔があり感謝を示せる人がいる、痛いと感じる人がいる、そして何も反応しない人がいる。障害があっても「この人は私と同じ人間なんだ」と感じることができることは、障害者問題の克服の手掛かりとして重要だ。障害が軽症なほど、そのように感じられる可能性が高い。しかし、生きる権利に障害の重症度で線が引けるのか。じゃあ、どこで線を引くというのか。この問題を考えていくことは、人として辛かった。

 大学時代にボランティアとして関わっていた施設には、運動障害のみで知的には障害のない方もおられたが、知的低下を伴う方も多く入所され、最重度の方ではこちらの問いかけに反応を示すことがない状態の方もおられた。もし自分だったら、この状態で生きていたいと思うか、という問いをよく自分に発してみた。当時の私が見たのは、重度の障害を持った方にも家族があり、高齢になった家族が家に連れて帰ることはできなくても、時々施設を訪れてはご本人に示す愛おしみや慈しみだった。その愛情が、胸に刺さった。そうした家族ばかりではなかった。障害に苦労をさせられた、愛情を持てない、という人もおられた。家族がいない障害者もおられた。ご本人の責任でもないそのような状況の差を取りざたする必要はなく、「誰かのために生きていたほうがいい」という状況があることが、重要な事実だった。それは当時の私の精一杯の答えであった。誰かから、社会から、「生きていてほしい」と願われる命。倫理とは、人の持つ、人だけが持つ、人の社会を保つ、人が人であるための、生きるすべなのだと思った。

 600万人のユダヤ人を、そして20万人の障害者を虐殺したヒットラーの優性思想は、良い遺伝子だけを地球上に残し、遺伝構造を改良し人類の進歩を促そうとした。まさかと思うような思想に、多くの人が共鳴した時代があった。そして多くの命が奪われた。これもまた人間だ。人間である限り、またどこかで同じことを考える人間が生まれるのだろう。優性思想は魅力的だ。共感を呼ぶ根拠がある。悲劇はなくなることはない。その時の社会がそれを防ぐ力を持つかどうか、それにかかっている。1945年以降の世界は、ホロコーストの後遺症から優性思想をタブー視する力を持つが、いずれまた社会のどこかに生まれ出てくるだろう。それが人間なのだ。

 幸いなことに、今回の事件のあと、日本人とマスコミは良識的な対応をしている。「あってはならない事件」「障害者にも生きる権利がある」という報道が繰り返され、勇気ある障害者の家族や、今回の事件の被害者の家族などが、マスコミの前で、心の声を発している。こうした行動がこの問題を真の解決に向かわせられるのかどうかはわからないが、少なくとも障害者問題を知らなかった人々への啓もうにはなり得ると感じる。障害者問題は難しい。「差別」という問題も、人間がある限りなくなりはしない。だからこそ、愚直な努力を続けなければならない。命にはすべて同等の価値があり、どんな命も尊厳を保持されなければならない。そう言い続けなければならない。1つの命を大切に思う誰かの存在を伝えなければならない。

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